人間を動かす原動力は感情である

ワーク6日目。
それまで全く手がつけられておらず、最も悲惨な状況からスタートしたAさん家でのこと。
作業は80歳過ぎのお父さんが手伝ってくれた。
親戚の家に身を寄せているお父さんは、毎朝1時間半かけて自転車でやってくる。
気丈にも片付けを手伝ってくれる。でも気がつくといつも座ってぼんやりと涙を浮かべておられる。
その背中からは(どうすっぺ?これから、どうすっぺ?)という自問が聞こえるようだった。
家の中にはまだ海水が残っていた。
手で探ると、底から泥まみれの農機具、漁道具、大工道具・・・色々な仕事道具が出てくる。
ぼんやり座るお父さんに声を掛けてみる。
「お父さん、お仕事はなにをされてたんですか?」
すると、お父さんは少し時間をおいた後、ニカっと笑って言った。

「なんでもやっでぎだのさ。俺はさ、生きる為にさ、何でもやっでぎだのさ。だから、なんだって出来るよ。」

津波は、そんな必死に生きてきた人々の財産と思い出と誇りを、一瞬にして飲み込み、流し去ってしまった。
荒浜でのワークに参加した10日間は、こうした被災者の方々の生の感情に寄り添う毎日だったように思う。
そして、その感情は私たちにも伝播した。これほどまでに私たちの感情がむき出しになったことは今までないだろう。
私たちは毎日大粒の涙を流し、獣のような声を上げ重い物を運び、床下で必死に仲間を呼び、仲間と抱き合って喜び合った。
お父さんが必死に働いて建てた家には、丸太が突っ込んで大きな穴があいている。この先再び住めるようになるかはわからない。
結局取り壊しになるのかもしれない。
それでも皆が必死に働いていた。
人間を動かす原動力は感情である、そのことに改めて気づかされた10日間だった。

牧野兼三(ボランティア)

ありがとう。

あの日のこと
3月11日 午後2時46分
誰も予期していなかった地震が起きました。
私の部屋の本棚の本はすべて落下。家にある食器は半分以上割れ、ほんの数分で家の中は滅茶苦茶に……、本当に無残な光景でした。
震災当日。
家に居ても、外に居ても、地震から逃げることができず、とにかく“恐怖”。
どうしようもできなかった……。
ただ、家族と親族の無事が何よりうれしかったのを今でも覚えています。
ただ、ひとりを除いて。
電気が復旧し、ライフラインが回復し始めた頃です。私は、友だちに安否確認のメールと、自分の無事を報告するメールをひたすら送っていました。
メールはほぼ返ってきました。
ただ、ひとりを除いて。
3月27日、私は大切な友だちの死を知りました。
彼女は、3月25日に彼女の父親に遺体を確認されたそうです。
何故、彼女だけが亡くなってしまったの?
何故、……彼女が死ななければいけなかったの……?
何故…、……私は生きてるの……?
ただ、彼女の死を信じられなくて、信じたくなくて、
ただただ、今回の震災が憎くてたまらなかった、
言葉にできないくらいツラかった、苦しかった、
何より、無力な自分が……許せなかった……。
一本の電話
彼女の死を知ってからの私の生活は、本当に荒れていました。昼夜逆転、食事は1回、部屋に引きこもり、地震に怯え、夜が怖くて気づいたら毎晩泣いている。肉体的にも精神的にも、本当にボロボロな状態でした。
そんな時、
携帯に電話がかかってきました。
ボランティアを探しているという電話。それが、今回1か月近く活動したエマオでのボランティアとの出合いでした。
初めての被災地ワーク
“自分にも何かできるかもしれない”
そんな希望を持ってのぞんだ初めての被災地でのワーク。
……その希望はすぐに打ち壊されました。
目の前に広がる光景は、テレビでは伝えきれない程の無残な街の姿。想像以上の泥の重み。被災地に居るだけで、ツラく、作業にうまく集中できず、力になれませんでした…。
私は改めて自分が無力な事を実感、悔しくてたまりませんでした。
できることが見つかったとき
次の日、
被災地でのワークができない私に、
「自転車置き場のお掃除頼んでもいいかな?」
ひとつの依頼。
やっと、自分ができることを見つけられた瞬間(とき)でした。
それからというもの、私は“内勤”という形で、ワーカーさんのサポートをすること、自分ができることを夢中でやっていた気がします。
ボランティア受付、自転車のカギ管理やパンク修理、掃除全般、物資の仕分けや輸送……。失敗を繰り返しながら、さまざまな工夫をし、より良い環境作り、雰囲気づくり!
どん底から前向きに
この1か月で、多くの仕事を内勤ワーカーのみんなと一緒にできたことは、私の財産です。
ひとつずつ、みんなで作り上げていくことに少しでも参加できたこと!!私の活動で、ワーカーさん達に素敵な笑顔で“ありがとう!!”って言われたこと!!美味しいご飯を大人数で食べたこと!!
本当に本当に、うれしいことがたくさんありました!!
この1か月で、私は、本当に前向きになれました。
何より、彼女の死を……ちゃんと受け入れられそうです。
与えられた仲間
今回の震災には、本当に多くのものを奪われ、失いました。私は一生許さないし、憎くてたまらないことも変わらないです。
だけど、素敵なモノを手に入れました。
それは、
“仲間”
たくさんの仲間に出逢えて、
たくさんの仲間の優しい“気持ち”“想い”に触れ、
本当に本当に、たくさんの仲間に支えられました。
言葉にできないぐらい、感謝の気持ちでいっぱいです。
仲間に出逢えなかったら、
今のように、前向きになれず、
ただ、震災を憎み続けるだけになっていました。
出会えた仲間全員に心を込めて!!
“ありがとう!!!”

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ボランティア Tさん

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明学東村山チームの活動報告(石巻・5月5日)

5月5日(木)
4日間お世話になった涌谷町「のの岳公民館」の掃除をし、同宿の「東京YMCA」の皆さんとお別れをして、再び石巻に向かいました。
最終日はボランティア・ワークはせず、石巻市内が見下ろせる日和山公園にのぼりました。美しい花が咲き乱れるこの公園から港や町を見下ろすと、津波の被害がいかに大きかったかが実感できます。あまりの光景に泣きだす生徒もいました。

その光景を見つめながら、私たちは日和山で閉会礼拝をしました。礼拝の中で、一人ずつ感想を語り、共にわかちあいました。
<閉会礼拝で語られた生徒の感想(抜粋)>
「自分は、2日目の作業ですごい満足感を持っていました。それが日和山に登った瞬間、自己満足だったんだなと思いました。この震災の事は絶対に忘れないし、これからも何らかの支援をしていきたいです。」
「テレビで見る石巻と、実際に見る石巻は全然違っていました。このボランティア・チームでしたことは、微力だったかも知れないけど、無力じゃないってことを考えさせられました。分かち合いの時を通して、チームの仲間や先生方の話しを聞いて、自分の考えも深まったし、自分の生まれ育った宮城県への思いも強まりました。」
「ワーク出来たのはたった2日でしたが、すごい充実した2日でした。自分たちのしたワークは被災地の役に立ったんだという実感がある一方で、僕たちの出したゴミはこれからどうなるのだろう?、僕たちのワークは本当に役に立ったのだろうか?、という矛盾した考えもあります。その答えはすぐ出せるものじゃなくて、何年もかけて自分なりに答えを見つけてゆきたいと思います。」
「関東にいる時は対岸の火事みたいな感覚でした。関東に帰ると、この経験を忘れてしまいそうで、辛いです。この経験を忘れないで、普通に生活できることの大切さを心に刻んで頑張ってゆきたいと思いました。」
「このボランティアに参加できて良かったと思います。最後のこの光景を見て、本当に微力だけど、無駄じゃなかったと思う。復興には長い時間がかかるから、継続した支援が必要だと思います。今の私に出来ることは、風化してゆかないように、これを伝えることかなと思いました。一昨日のボランティアの時に、リーダーの渡辺さんに『ボランティア楽しい?』と聞かれて、不謹慎な気がして『楽しい』と答えられませんでした。でも今よりもっと多くの経験が出来たら、『楽しい』って言えようになると思うから、これからも継続して関わってゆきたいです。」
「今、この景色を見て、ちょっとずつでもやっていかなくちゃいけないと思いました。私たちは2日しかボランティアできてなくて、もっとやりたいし、またここに来たいという気持ちでいっぱいです。東京に行って普通の生活に戻っていいのかという不安もあって、とにかく伝えてゆかなくちゃいけないと思いました。」
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一人ひとりの色々な思いを分かち合い、お祈りをして閉会礼拝を終えました。お昼前に石巻を出発し、帰りに仙台の東北教区被災者支援センターに立ち寄って挨拶をし、東京へ戻りました。
4日間の短いプログラムでしたが、神さまに祝福された4日間でした。感謝して報告いたします。
佐藤飛文(明治学院東村山高校有志ボランティアチーム団長)
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「うれしい時にも涙はでるんだよー」(仙台市・宮城野区)

大きな情報格差
5月2日に仙台市宮城野区でKさん宅でワークしていた際に、2軒隣に住むと別の「Kさん」に声をかけていただき、そのおうちでも庭の泥かきを手伝うことになりました。
この「Kさんの2軒隣のKさん」のお宅は、おじいちゃんとおばあちゃんの2人暮らし。今までボランティアに手伝ってもらったことはないらしく、社会福祉協議会の存在も知らなかったとのこと。この情報格差に、支援を必要としている人にいかに知らせていくかの難しさをみました。
「うれしい時にも涙はでるんだよー」
2軒隣のKさんは、5月3日から5日までのワークを通して、私たちを本当の子どものように思い、接してくださるまでになりました。私たちが関西・東京からきたことを言うと、しきりに「ありがとう」「すごいね」「偉いね」といってくださる。
そして、おばあちゃんの目からは涙。「うれしい時にも涙はでるんだよー」って。このお宅に偶然にも巡り合わせてくれたことに感謝。おじいちゃんと2人で泥に埋もれた庭をきれいにすることに途方にくれてたんだろう。
家庭菜園の好きなおじいちゃん。初めは早く種まきをしたいがために、泥をとらずに耕してしまっていました。そのため、泥を掘り返していく作業をすることに。ひと苦労だけど、おじいちゃんの家庭菜園への想いが伝わります。元気な栄養いっぱいの野菜や果物が実をつけるように願い、作業の手は休まりません。
「この花が咲いたら、あんたたちのこと思い出すからねー」
作業をしていてうれしいこと。最初は茶色い土と木しかなかった庭に、緑が現れる瞬間があること。泥を探して10センチほど掘ると、リュウノヒゲ(竜の髯)やスズランの芽があちこちから現れるのです。震災から早2か月がたとうと言うのに、泥の中で生きてた命がある。泥も取ったし、雨が流れれば塩もぬけ、きれいな花を咲かせてくれるかな。
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「この花が咲いたら、あんたたちのこと思い出すからねー」と、おばあちゃん。
だから余計に作業は丁寧に進めねば。スコップでガツガツやってダメにしてしまわないように。時間がかかっても大切にしたいこと。
エマオだからできる支援の形

スローワーク
効率性より心のつながりを

それは、ここエマオが大切にしている活動指針とつながります。エマオだからできる支援の形。
Kさんの2軒隣りのKさん、少しだけど力になれたかな。休憩ばっかりして、いろんな気を遣わせてしまったけど、泥かきを手伝わせていただいたこと本当に感謝です。
「助けてくれてありがとねー」と、おばあちゃん。
たくさんのありがたい言葉と、美味しいコーヒーや差し入れなどなど、そしてなにより温かい時間を一緒に過ごさせてくれて、こちらこそ、ありがとうございました、です。
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また畑などで手伝いが必要なときはいつでもご連絡をくださいね。


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庭から運び出した土のうの山と共に。
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七北田川の土手にて。右から濁流が土手を越え、押し寄せた。左にはがれきの山。

ボランティア 岡あゆみ

忘れてはいけないこと。(仙台市・若林区)

忘れてはいけないこと。
4月29日~5月4日。
6日間、宮城県仙台市にて津波の被害が大きかった地区のボランティア活動。
ここまで濃密な6日間・時間を過ごしたことはなかった。
昨日のボランティアでは、震災後ほぼ初めて家屋の片づけをする家に入りました。家の壁には津波で丸太が突っ込み、大きな穴。家の中は、ぬめりにぬめった黒い泥で溢れてしまっている。タンスの中は泥水で満杯になってしまっているまま。
そのおうちのご家族ももちろん来ていて、お母さんは立ちつくして動けていなかった。
私たちボランティアは続々と泥につかった品々を外に出していくだけだけど、ご家族にとっては大切な家、大切な家具のひとつひとつ……。かける言葉がありませんでした。写真だって、ヘドロにつかっている。
でも、ご家族のなかのおじいちゃんの笑顔が、じんわりとあたたかいの。
昨日は穏やかな晴れ。
「ここは良いところ」という地元のひと。
美しい砂浜、鳥のさえずり……
ボランティアが終わってしまうのが悔しかった。
お家の片づけにもっと参加して、
少しでもご家族の人たちを後押ししたかった。
「エマオ」という場所で
私がお世話になった、東北教区被災者支援センター・通称「エマオ」。“泥かきだけがワークじゃない。私たちは、心を、思いを、気持ちを届けるボランティア活動を目指しています!”モットーにはこう書かれています。
エマオに所属できたから、ボランティアとして受け入れてくれたから、被災地での、「あたたかいもの」に触れることができた。
私はエマオでたくさんのステキな出会いに恵まれました。一緒にボランティア活動をすることができた仲間。たくさん笑いました。ずっとこれからもつながっていきたい。
シェアリングという、議論ではなく話合う時間が活動後、毎日ありました。ワークの感想、現地に行っての思いを皆で分かち合うというもの。それぞれの人の考えは貴重なもの。プラスのエネルギーに変換される。
ボランティアが元の居場所に帰るときの挨拶。「みなさんに出会えて良かったです。ありがとうございました!」みんながこう言う。
涙ぐむ人もいる。
「普段の出会いでは”名前を聞きたい”と思える人が少ない。だけど、エマオで出会った人にはお名前を聞きたくなります」
「2つの石になりたい」
高校を卒業したばかりの18歳のボランティア、アム君。
アム君はボランティアのリーダーでした。
地元は仙台、この春は埼玉で大学生生活。ゴールデン・ウィーク前の10日間ほど埼玉にいた以外、30日以上をボランティア活動に費やしました。
震災後、すぐにボランティア活動を開始。
彼は言った。
「2つの石になりたい」
「水に石を投じると波紋します。ひとつの石は地元・仙台で、もうひとつの石は埼玉で、こうしたボランティアの輪、できることを広めていけたら……」
こんなに立派な18歳。
私も含めた、いい大人たちは彼に頼りっぱなしだった。
「この1か月半でわかったことがあります。それは、誰かのために闘う人間は強いということです」
楽天・嶋選手の言葉。
誰かのために生きる。
誰かを守りたいと思えること。
私も
これから先、こう在りたいと感じました。


エマオに出会えて、本当に良かったです。
これからの生活で、
都内にいて、被災地に対してできることをしていきます。
ありがとうございました。

ボランティア 向田奈保(むかいだ・なほ)

明学東村山チームの活動報告(石巻・5月4日)

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5月4日は、石巻栄光教会から20分ほど歩いたところにある、石巻市大街道地区のアパートで、家の中に入り込んだ泥と家財道具を外に出す作業をしました。
2メートル以上の津波により、1階部分にあった家財道具はほとんど全て使えなくなりました。被災者の方は「全部捨ててくれて構わない」とおっしゃっていますが、写真や手紙など、大切なものは捨てずに別にしながら部屋をきれいにして行きました。午後になると、作業にも慣れてきて、泥を出すためにバケツリレーを試して見たところ、作業効率があがり、仕事がはかどりました。最後は全員でバケツリレーをして、午後4時に家の中の泥や家財道具などを全て出すことができました。

石巻栄光教会に戻り、庭で高圧洗浄機を使って泥を落として、石巻から涌谷へ帰りました。

宿舎に戻る途中に涌谷教会を問安しました。伝道師の飯岡洋介先生(実は明治学院大学法学部のご出身です)から、教会と保育園の被災状況を伺いました。
「キリスト教教育を受けてこられた皆さんが、こうして被災地に来て隣人愛を実践されていることを、明治学院の卒業生として嬉しく思っています。あと一日、頑張って下さい!」と激励して下さいました。ありがとうございました!
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(涌谷教会にて)
発信:佐藤飛文(さとうたかふみ/明治学院東村山高校有志ボランティア・チーム団長)
明学東村山有志ボランティア・チームのブログ

明学東村山チームの活動報告(石巻・5月3日)

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明治学院東村山高校有志ボランティア・チームが今日(3日)からワークを開始しました。
この日は石巻市の万石浦地区で、いくつかのグループにわかれて7つのワークを行いました。
(1)被災家庭の庭の泥だし 
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(2)被災家庭の側溝の泥だし
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(3)被災家庭の畳出し
(4)被災家庭の家の中の家財道具の整理
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(5)畑に流れ込んだガレキの撤去
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(6)支援物資の提供
(7)炊き出しのお手伝い
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炊き出しは、83食分を配ることができました。被災者の方々とボランティアが共に食卓を囲み、カレーライスをいただきました。食後は子ども達と鬼ごっこをしたりして、楽しく過ごすこともできました。
また、学校から持っていったお米(250kg以上!)はすべて配り終えることができました。
「無洗米があるんですか? 嬉しい!」「東京から持ってきてくれたんですか? ありがとうございます!」と大好評で、被災者の方々にとても喜んでいただけました。感謝して報告いたします。
発信:佐藤飛文(さとうたかふみ/明治学院東村山高校有志ボランティア・チーム団長)
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