白血球と骨髄の役割(仙台市・若林区)

(4月27日から5月7日までボランティア・ワークに参加されたボランティアの声です)
ボランティアは「白血球」

「私たちボランティアは、地球の傷を治すために集まった白血球」

ボランティアの仲間の一人が、こんな表現をした。
一つひとつの白血球は微力だけれど、沢山集まれば傷口をしっかり塞いでくれる。今回の震災では、本当に沢山の白血球が地球の大きな傷を自分の痛みだと感じ、東北の地に集結し続けているように思う。
そしてエマオは、こうした白血球を産出する骨髄といえるだろう。白血球の産出だけでなく、それぞれの傷口に適量の白血球を送り込む司令塔の役割をも担っているのだから骨髄以上の働きかもしれない。
出張から戻って
私は震災直後の3月末から3週間、ロシア・欧州への出張が予定されており、後ろ髪を引かれる思いで日本を発った。海外出張中はどこの国へ行っても、今回の震災のことを聞かれ、心配され、励まされた。チェルノブイリ原発事故による放射能汚染問題を今も抱えるベラルーシにも伺い、首都ミンスクの中心地にある聖シモン・聖エレーナ教会の横には「長崎の鐘」があった。これはベラルーシと同じように原爆により放射能汚染で苦しめられた長崎の浦上天主堂から寄贈されたものだそうだ。何だか不思議な偶然を感じた。私は鐘を一回鳴らし、世界の平和と東北の復興を祈った。
そして出張から戻った翌日にはボランティアの募集を探していた。そんな時にエマオのホームページにぶつかった。今すぐにでも自分にできることを何かしたいという一心だったので、即エマオに連絡。受け入れのメールは翌日には届いた。
エマオで生まれた絆
地球の傷口における白血球の役割を担おうとしてやってきた私が、ボランティア初日、不覚にも瓦礫の撤去作業中に釘を踏み病院行きという苦い経験をしたが、ここでは体内の白血球に助けられ、3日目にはボランティア活動を再開することができた。それから8日間、エマオを通じて、他のボランティアでは経験することのできない沢山のことを経験させてもらい、大変有意義な時間を過ごすことができた。
エマオは、被災地の方との信頼関係でつながり築かれた支援センターであるため、極力同じボランティアが同じお宅を継続的にワークする。新たなボランティアにワークの内容を引き継ぐことで、お宅の方が毎日説明しなくても、ある程度の長期的なスパンで活動することができ、お宅の中や床下での作業を行うこともある。更にエマオでは、宿泊場所や食事も提供していただけるので、同じ志を持ったボランティアの仲間と寝食を共にすることで絆が生まれる。
そのおかげで被災者の方々と新たな信頼関係が生まれ、かけがえのないボランティアの仲間たちと出会い、こうした暖かい輪が波紋のように広がっていくことを肌で感じることができた。
「骨髄バンク」に登録を
血液中の白血球と私たちのようなボランティアの白血球では、一つ異なる点がある。それは、血液中の白血球は一定量から増えすぎたり減りすぎたりすると、病気の兆候として考えられるが、ボランティアの白血球は、多ければ多いほど被災地の早期復興、地球の治癒につながるはずだ。
そのためにもエマオのような司令塔となる被災者支援センターのバックアップが、今後も長期的に重要な役割を担いことは間違いない。是非皆さんもこの「骨髄バンク」に登録してこの支援の輪に加わってほしい。
私も一白血球として、今後も自分にできることを少しずつ長期的に行っていき、支援活動に関わり続けたいと考えている。

ボランティア 「くぎぞー」こと白幡卓三(しらはた・たくぞう)

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心はいつも仙台に(仙台市・若林区)

(4月26日から4月30日までボランティア・ワークに参加されたボランティアの声です)
エマオを通しての5日間のボランティアは、本当に矢のように過ぎていきました。人生初のボランティアで見たもの、聞いたこと、感じたこと…とてもたくさんあったけれど、それは決してマイナスなことだけでもプラスなことだけでもなくて、そこには目を覆いたくなるような、胸が痛くなるような現状も、作業がひと段落したときの喜びやふとした時に生まれる笑顔も、リアルに混在していました。
言葉にできなかった現実
私のワーク最終日にお手伝いさせていただいたお宅はエマオとしても初めて伺ったお宅で、私はお庭とビニールハウスの泥出しをしました。作業が始まる前に、おかあさんが、

「あそこの小屋には車を入れてたんだけど、傾いちゃったから今日壊してもらうのよ。」

とお話ししてくだっさった時、たやすくかけられる言葉なんて何もなくて、ただ黙って頷くことしかできませんでした。
休憩をしている時に重機が入って、その小屋を解体していましたが、壊してしまうのはあまりにもあっという間で、胸が押しつぶされそうでした。小屋を取り壊すバリバリという音と、それを静かに見つめるご夫妻の横顔が忘れられません。
自分がその日帰らなければならないのがとても悔しかったけれど、あのビニールハウスから泥をなくして、新しい芽が出る日が少しでも早く来るように願いながら帰りの自転車をこぎました。
ひとの温かさに触れて
嬉しいこともたくさんありました。それは特に人の温かさに触れた時に感じられたことで、エマオを通した活動ではそんな人の温かさがあふれていたように思います。
私が3日間お世話になったお宅では、お庭を覆っている泥出し作業と、処分するものの分別作業が主でした。1日目は作業中にお互いに話をすることもあまりなくて、作業も別々にしていた感覚があったのですが、2日目、3日目と時間を重ねるごとに会話も増えてきて、3日目はみんなで会話をしながら、笑いながら、一緒に作業をすることができました。
そのお宅でのワークを終えるときに、おかあさんが、

「お別れさみしいねえ、落ち着いてここもまた住めるようになったら、泊りに来てね。第2の家だと思っていいんだから。」

と言ってくださいました。
胸がつぶされるようなことも多いけれど、ここにはこんなに温かい人がいて、こんなに温かい言葉をかけてくれる。こんなにやさしい気持ちがあふれている。少し泣きそうになりながら、必ず伺いますと約束をしてきました。
ひとりひとりの想いが重なって
復興には様々な技術や機械の力が必要だけれど、被害にあった場所に本当に明るい未来を運ぶのは、人の想いなんだと思います。

見ず知らずのボランティアを迎え入れて少しずつ心を開いてくれる現地の人がいる。
自分に何ができるかわからないけれど、少しでも力になりたくて現地に飛んできた人がいる。
ボランティアに行きたいけれど自分の状況がそれを許さなくて、悩みながら、それでもできることを探す人もいる。

ひとりひとりの想いがとても尊くて、その想いが重なったり交わったりしながら、確実に、復興に向かっていく。エマオに行ったことで、復興に向けて”誰か”が動いているのではなくて、さまざまな想いを持ったひとりひとりが動いていることを感じられたのは私にとって大きなことでした。
東京で大学に通う私には、ずっと仙台にいてお手伝いをすることは叶わないけれど、心はいつも仙台に飛ばしています。そして、私にできることはとてもちっぽけだけど、ちっぽけなひとつひとつを広げていく1人になりたいと思います。
夏になったら帰ります。進みながら待っててね、仙台!

ボランティア 横田美郷(よこた・みさと)

希望の種を植える(仙台市・若林区)

(4月29日から5月5日までボランティア・ワークに参加されたボランティアの声です)
希望の種を植える
4/29(金)~5/3(火)の5日間のワークを終えて、最後の最後に気づいた事があります。エマオのボランティアワークは決して泥やゴミをかたずけているのではないという事を・・・。絶望だらけの被災地に希望の種を植えていく事。庭に、床下に、そして人の心の中に。エマオのワークとはそんな目に見えない物を大切に拾い上げていく事だと思います。
そしてもう一つ素晴らしいのはそんな自分達の大切な気持ちを次のワーカーへと託す事が出来る事。ワークを終えて東京に帰らなければいけないのは確かに寂しいし、もっとみんなと一緒に頑張りたいし、なによりもっと被災者の力になりたい・・・。
タスキをつないで
でも、今の自分に悔いはありません。タスキはしっかりつなぎました。きっと残った仲間達が自分なんかより何倍も素晴らしい働きをしてくれるはずです。
5/6(金)出勤前の朝6:47うれしいメールがありました。

『昨日、あの家のワークが終了しました。皆さん大変喜ばれ笑顔が戻っていました。』

一緒にワークをした仲間からのメールです。
別れの挨拶の時、おばあちゃんも強く手を握り涙を流しながら言ってくれました。

『また来たら、必ず寄ってね。』

おばあちゃん今度会う時にはもっと元気で笑顔になっていたらいいな。次にまた自分が戻ってタスキを託されるまでみんなよろしくお願いします。
最後に、スタッフの皆様、本当にありがとうございました。エマオはオンリーワンのボランティア団体です。言い尽くせない感謝と共に皆さんの健康と安全をお祈りしています。

ボランティア 菅原忍(すがわら・しのぶ)

「東北教区被災者支援センター」の公式ブログ

思いやりとは想像力(仙台市・若林区)

(4月30日から5月5日までボランティア・ワークに参加されたボランティアの声です)
迷惑にならないか
私のエマオとの関わりはエマオに申込メールをした時から始まる。申込後、エマオでは顔の見えるボランティア活動をするために自転車で往復する形をとっていることを知った。
津波で身内や友人・知人を失った悲しみ、津波から命からがら逃げた恐怖、これからどうやって生活していくかという将来への不安・・・そんな大きな傷を負った被災者の方々に、どういう意識でお手伝いをしていけばよいのか、私は戸惑った。東京では、「東京の人が一番できることは義援金を送ることです」とか「自己満足と達成感の為にやってきたボランティアの為に現場が混乱している」という記事もあった。40代の私に現地で働く力はあるか。迷惑をかけることにならないか。
必要なものは真摯な心構え
葛藤の日々を送りながら思ったことは、もし神様が私の働きを必要としているなら、受入れのメールがくるであろうと。断りがきたら、東京でできることをがんばろうと思った。出発1週間前にエマオから受入れのメールがきた。翌日、エマオにお礼の返答をした後、もうひとつ申し込んだ所から受入れメールがきた。お導きとは不思議なものである。
では、何が必要か。時間を見つけては、ホームセンターと作業服屋で道具を見に行った。シャベルと、のこぎりと、腰袋と、、、。すみにたまった泥は固くて小さいシャベルかな、スコップでだしにくい所もあるだろうから、深い小型シャベルはどうかな。でも、一番必要なもの、それは私の真摯な心構えだった。深く傷ついた人たちの中に、土足で入っていく部分もある。実際に被災していない私たちに、被災した方の心情は頑張っても1割も理解できないかもしれない。それでも、理解する努力しなくては。
ボランティアだからできること
私は、若林区の大きな農家を手伝った。ご夫婦二人で営んでいる。初日の緊張は今も忘れられない。一番緊張したのは、初日昼にトイレを借りた時である。本来、トイレは公設トイレを利用する。しかし、私はあえて、ご自宅のトイレをお借りした。ご家族と少しでも近くで話をしたかったから。少しでも早く、私たちへの不安をといてほしかったから。たくさんのストレスのある中、不要な警戒心をなくしてほしかった。
お宅では細心の注意をして話をした。でしゃばらず、控え目に、共感の思いをもって。人間は感情の生き物である。どんなによいことを100しても、ひとつの不快のことで台無しになることもある。そんなことにならないように。二日目、三日目、だんだんと、ご家族から笑顔が増えてきて、ほっと安心した。お二人の口から、被災した日からの様子をうかがうようになった。

被災して津波警報が流れた後も、車が流されないように、避難先からご主人が歩いては車を走らせ何度か往復して、最後は大きな揺れの中、津波に追われる形で避難したこと。少し遠い所にお住まいの方は、津波にのまれてしまったこと。一緒に逃げた愛犬にあげる餌がなくて、お菓子を与えていたせいか、最近亡くなってしまったとのこと。車で流された人が庭の木に引っ掛かって自衛隊に助けてもらい、新聞にのっていたこと。6畳くらいの物置小屋が庭に流れてきて、出入りする人がいるので泥棒かと思ったら、持ち主で、どうにも動かせないのでそのままにすることになったとのこと。これからビニールハウスで、今までは稲作りの後、野菜を作っていたが、稲はできないので、野菜のみにするとのこと……

奥様は、私たちにとても気を使って下さって、毎日お味噌汁だったり、手作りのお漬物だったり、切干大根だったりもてなして下さり、笑顔とともに疲れた私たちの心と体をいやして下さった。本来頂くものではないが、お気持ちを有り難く頂いた。おいしくペロッとたいらげる若者の様子に、満面微笑みを浮かべていらして、私たちもうれしくなった。
最後の方は休憩時間はいつも一緒にお話しするようになり、一生懸命作業をする私たちと、それを受け入れて下さる気持ちが通じ合っているようだった。作業だけなら、自衛隊にかなわない。でも、ボランティアだからできることもある。仕事ではなく、それぞれの思いをもった仲間たちだから生まれるものがあり、それを被災した方に届けることができると信じている。お二人の暖かいお人柄にふれて、私たちはもっとがんばろうと思った。
東京に帰ってもできることはある。お金もそう。お金は頭でかせぎ、心で使うという。
もっと、がんばらないと。

神様
私たちが飢えずに食することができ、雨露にぬれずに寝ることができることに感謝いたします。
五体満足で活動できることに感謝します。
感じる心を与えて下さったことに感謝します。
私たちが謙虚な気持ちと感謝を忘れることなく、愛と勇気をもって進んでいけるようにお導き下さい。

ボランティア 下重麻里(しもじゅう・まり)

がんばろう東北。フレーフレーエマオ。

1週間、仙台市の若林区と宮城野区で泥出し等のワークをしました。
私にとって仙台は学生時代を過ごした第二の故郷です。泥出ししたお家の方々が喜んで下さって自己満足かもしれませんが、少しでも復興の手助けができたかと思います。
しかし、人間一人の力だけでは非常に微力です。少しでも多くの人々が、泥出しというボランティアに限らず何でもいいので(例えば東北のお酒を飲むとか)、復興支援の活動をして頂けたらと思います。
瓦礫の山を見て涙が止まりませんでした。少しでも早くこの街が復興するように、がんばろう東北。フレーフレーエマオ。

ボランティア 神田

新しい一歩!

エマオとの出合い
仙台の高校を卒業し、関東への大学進学を間近に控えて、私は仙台で震災に遭いました。
最初の1週間は、ライフラインがすべて停止し、近所の水くみのお手伝いや、お年寄りの方のお宅の片づけをお手伝いさせていただいていました。けれども、すぐ近くにいながら、津波被害の地域で役に立てないことを、どこかでもどかしく思っていました。
そんな時に、この東北教区被災者支援センター・エマオと出合いました。そして3月21日から5月4日まで1か月以上、エマオでボランティアをさせていただきました。
初めての被災地で
ボランティア先である七郷に初めて入った時の衝撃は、今も鮮明に覚えています。あまりに無情な光景に言葉を失い、受け入れることができませんでした。にぎわいが戻っている仙台市の中心部から、自転車でわずか40分のところに、まったくの別世界がありました。
農家を営んでおられるボランティア先のお宅の方が「ボケ」の話で笑っていた時に聞いた言葉が、なかでも心に深く残っています。

田植えもできない、トマトもならない、キュウリは出荷できないし、ゴールデン・ウィークに苗を売ることもできない、だから季節もわからない……

そう、おっしゃっていました。聞いているだけでも向き合うのがつらい現実に、帰ってから涙したことも、何度もありました。
優しさに包まれたこと
しかし、悲しいことばかりではありませんでした。
お宅の方とともに笑ったこと。
お宅の方の優しさに包まれたこと。
たくさんの県内外のボランティアさんと出会えたこと。
そして、人の温かみに触れたこと。
先日、自転車でのワークからの帰り道。初めてお会いした方から、励ましの言葉をいただき、ソーセージを添えたパンをいただきました。またバスを待っていた方からも、横を通るときに、励ましの声をかけていただきました。うれしさのあまり涙が出そうでした。
直接ともに活動したスタッフやボランティアの皆さんはもちろん、物資を届けてくださった方や励ましの言葉をかけてくださった方、このページを見て思いを寄せてくださっている方……。
数えきれないほどの優しさ・温かさに支えられていました。
「勉強、がんばって」に励まされ
先程の農家の方はすでに、前を向いて、ポットでトウモロコシを育て始め、泥出しが終わったハウスでは塩抜きを始めています。いま、現地の方々は、確実に一歩一歩、復興の道を歩んでいます。一歩一歩……。
私も、いま、関東での新生活の一歩を踏み出しました。この状況のなか、地元の仙台を離れることに対しては、大きな葛藤がありました。本当に悩みました。

でも、現地も確実に歩み始めている。そして、必ず明るくなっていく。

多くのボランティアの仲間のおかげで、そう信じられるようになったとき、私も自分の道を歩みだそうと思い始めました。
そして、何よりボランティア先の方から言われた、「勉強、がんばって」の言葉に背中を押されました。逆に私が励ましていただきました。
必ず戻るから!
距離は離れていても、毎日現地の「いま」を思っています。一歩一歩の歩みを祈っています。
私ももう下は向かないで、現地の方のように前を向いて、自分の夢に向かって、全力で頑張っていきます!
夏休みには、少し明るくなった宮城に戻って、また、一緒に歩んでいきたいと思っています。
エマオでの
たくさんの方との出会いに
本当に感謝しています
夏休み
また現地でお宅の方と一緒に笑いたいです
エマオにかかわるすべての方に……
心から感謝します
ありがとうございます!!
過去形にはしません
必ず戻るから
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ミーティングにて

ボランティア 石川歩(いしかわ・あゆむ)

人間を動かす原動力は感情である

ワーク6日目。
それまで全く手がつけられておらず、最も悲惨な状況からスタートしたAさん家でのこと。
作業は80歳過ぎのお父さんが手伝ってくれた。
親戚の家に身を寄せているお父さんは、毎朝1時間半かけて自転車でやってくる。
気丈にも片付けを手伝ってくれる。でも気がつくといつも座ってぼんやりと涙を浮かべておられる。
その背中からは(どうすっぺ?これから、どうすっぺ?)という自問が聞こえるようだった。
家の中にはまだ海水が残っていた。
手で探ると、底から泥まみれの農機具、漁道具、大工道具・・・色々な仕事道具が出てくる。
ぼんやり座るお父さんに声を掛けてみる。
「お父さん、お仕事はなにをされてたんですか?」
すると、お父さんは少し時間をおいた後、ニカっと笑って言った。

「なんでもやっでぎだのさ。俺はさ、生きる為にさ、何でもやっでぎだのさ。だから、なんだって出来るよ。」

津波は、そんな必死に生きてきた人々の財産と思い出と誇りを、一瞬にして飲み込み、流し去ってしまった。
荒浜でのワークに参加した10日間は、こうした被災者の方々の生の感情に寄り添う毎日だったように思う。
そして、その感情は私たちにも伝播した。これほどまでに私たちの感情がむき出しになったことは今までないだろう。
私たちは毎日大粒の涙を流し、獣のような声を上げ重い物を運び、床下で必死に仲間を呼び、仲間と抱き合って喜び合った。
お父さんが必死に働いて建てた家には、丸太が突っ込んで大きな穴があいている。この先再び住めるようになるかはわからない。
結局取り壊しになるのかもしれない。
それでも皆が必死に働いていた。
人間を動かす原動力は感情である、そのことに改めて気づかされた10日間だった。

牧野兼三(ボランティア)